凶悪事件簿 2014年03月

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嶋中事件

嶋中事件(しまなかじけん)とは、1961年に起こった右翼テロ事件。風流夢譚事件(ふうりゅうむたんじけん)とも言う。
雑誌『中央公論』1960年12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』の中で、皇太子・皇太子妃が民衆に斬首される部分や民衆が皇居を襲撃した部分が描かれたことなどについて、不敬であるとして右翼が抗議し、1961年2月1日に大日本愛国党の党員だった17歳の少年が、中央公論社社長の嶋中鵬二宅に押しかけた。少年は嶋中との面会を求めたが嶋中は不在で、雅子夫人が重傷を負い50歳の家政婦が刺殺された。少年は事件の翌日に警察に自首して逮捕された。
岸首相襲撃事件、浅沼稲次郎暗殺事件など、安保闘争に対抗するかのような一連の事件の1つであった。


【事件の経緯】

作者の深沢七郎は中央公論新人賞出身。作品の内容は、「左慾」革命により天皇・皇族が次々と殺害されるという夢をつづったもので、「左慾」という表記から見てもわかるように、深沢は左翼への揶揄を込めて書いたという見方もある。
しかし、実名で登場する当時の皇太子妃が斬首される描写などから批判が集中し、姿を隠した深沢に代わり、掲載した中央公論社が矢面に立つことになった。右翼系の日刊紙「帝都日々新聞」が中央公論社を非難し、11月28日には大日本愛国党の党員8名が中央公論社を訪れ謝罪文を要求。宮内庁は翌11月29日に抗議。これを受けて翌日に竹森清編集長が宮内庁に赴き謝罪した。
ただ、右翼団体側の反発は収まらず、ポスターや立て看板、飛行機から散布するビラで中央公論社を糾弾。国粋会、松葉会などの右翼団体が中央公論編集部へ抗議に赴き乱暴した。12月発売の『中央公論』1月号では改めて「お詫び」を掲載。併せて竹森編集長を更迭し(後任は置かず嶋中社長が兼任)編集部員も入れ替え、事態は収拾するかに見えたが、翌年1月30日に「赤色革命から国民を守る国民大会」が開催され、事件発生はその翌日のことであった。


【事件の顛末】

1961年2月4日に中央公論社は犠牲者となった家政婦を社葬。翌日『風流夢譚』の掲載を反省する一方で事件を遺憾とする社告「ご挨拶」を中央公論社名で新聞に出した。2月6日には事件前に提出されていた辞表が受理され竹森前編集長が退社。さらにその翌日嶋中社長名義で新聞に「お詫び」を掲載した。同社の一連の姿勢に対し被害者であるはずが謝るという点に疑問の声も存在した。
事件により言論・表現の自由が暴力に脅かされたとして、抗議のビラを配布し右翼の暴力を取り締まるよう国会へ要請していた日本出版労働組合協議会などのマスコミ系の労働組合が中心となり、2月8日に日比谷公会堂で「テロに抗議し、民主主義を守る会」が開催され、「言論・出版の自由を守る文化団体連絡会」が結成された。他方皇室を敬愛する立場からの中央公論社への風当たりは強く、池田勇人内閣の閣議では皇室に代わって宮内庁が民事訴訟を検討すべきだという意見も出てこれが多数派を占めた。
同年12月には、中央公論社が発行していた思想の科学研究会が編集する『思想の科学』を一方的に発売停止とし断裁廃棄処分にした。これは同誌が天皇制特集を組んだためで、嶋中事件の影響と見られている。この号を断裁前に右翼の三浦義一や公安調査庁職員に読ませていたことも発覚し、思想の科学研究会はこれに抗議し主要メンバーが中央公論社への執筆を拒否。さらに「思想の科学」も中央公論社から離れ自主刊行されることになった。
これらの事件により中央公論社の論調から体制批判的な要素は退潮し、執筆人もこれまでの主力だった革新系の論客に代わり林房雄、永井陽之助、高坂正堯といった保守系(ないし非革新系)の論客が登場するようになった。
被告人となった少年に対しては1962年に東京地裁で懲役15年の判決が言い渡された。少年は控訴したが1964年11月9日に東京高裁は控訴棄却し、刑が確定した。少年は犯行時に眼鏡が外れたため夫人ではなく誤って直接関係ない家政婦を殺害した。また収監後に精神状態が不安定になり長期の療養生活を送ったとの報道を『女性セブン』1971年11月3日号がしている。それによればノイローゼ状態になったことから八王子医療刑務所で治療を受けているというものであるが、その後の消息は不明である。
また少年の父は長崎地検諫早支部の副検事を務めていたが、息子の責任を取って辞職に追い込まれた。少年が事件当日まで所属していた大日本愛国党の総裁赤尾敏は、事件の黒幕だとされ殺人教唆・殺人未遂教唆などの罪で1961年2月21日に逮捕されたが、4月17日には証拠不十分で釈放となった。大日本愛国党によれば事件前日に少年は「右翼生活は性格に合わない。田舎に帰る」と行って出奔したとしている。これは赤尾に累が及ばない為の気遣いであったともいえる。
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