凶悪事件簿 2015年02月

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金閣寺放火事件

金閣寺放火事件(きんかくじほうかじけん)は、1950年7月2日未明に、京都府京都市上京区(当時の上京区は事件後の1955年9月に上京区と北区に分区したため、現在では北区にあたる)金閣寺町にある鹿苑寺(通称・金閣寺)において発生した放火事件である。アプレゲール犯罪の一つとされた。


【事件の概要】

1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報。消防隊が駆けつけた時には、既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。幸い人的被害はなかったが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍、足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失した。
鎮火後現場検証したところ、普段火の気がないこと、そして寝具が何故か付近に置かれていることから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べたところ、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名林養賢・京都府舞鶴市出身・当時21歳)がいないことが判明し行方を捜索した。夕方になり金閣寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていた林を発見し、放火の容疑で逮捕した。


【動機】

その後、林は救命処置で助かった。逮捕当初動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などと供述した。しかし実際には自身が病弱であること、重度の吃音であること、実家の母から過大な期待を寄せられていること、同寺が観光客の参観料で運営されており、僧侶よりも事務方の方が幅を利かせるなどの現実から、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていた。
そのためこの複雑な感情を解き明かそうとして後述のような文学作品が創作された。これらの中で三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したが、実際のところ真相は解き明かされることはなかった。
また、後述するように、服役中に統合失調症の明らかな進行が見られたことから、事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。


【その後の経過】

事件後、林の母親は京都府警の事情聴取のため京都に呼び出されたが(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核で病死)、捜査官から事件の顛末(てんまつ)を聞かされて衝撃を受け、不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせた。だが母親は実家がある大江(現在の京都府福知山市大江町)への帰途、山陰本線の列車から京都府亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺した。1950年12月28日京都地裁は林に対し懲役7年を言い渡した。林の精神鑑定を行ったのは後に国立京都病院に精神科を設立、医長となる加藤清である。
しかし服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院したが1956年3月7日に病死した。親子の墓は親戚のいた舞鶴市安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。


【再建】

現在の金閣は国や京都府の支援、地元経済界などからの浄財により、事件の5年後の1955年に再建されたものである。金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能となった。
事件当時の金閣寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が行われた。現在の姿は再建に当たっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針によるものである。
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